最近教えていてわかってきたことのメモ
最近初学者の方にエンジニア職を教える機会があり、いろいろと教えている内に何となく知識化された事を自分のためにメモ化しておこうかなと思い、こうして投稿しました
技術を学ぶために技術を覚えるというのは一見筋が通っているように見えるけども、技術とは何、という大きな問い合わせに対して模索する方法がありすぎるので、初学者はそこよりも「これをやりたい」という目標に見合った技術を覚えた方が最短で知る事はできる
— オレンジライオン (@lion_man44) 2016年5月6日
ここで重要なのは学ぶ事ではなく、知る事
(自分のtweetに反応して自分よりも分かりやすくしてくれた)
ですよね。興味は技術依存しない武器なので、特に学ぶ最初においては、興味でこじ開けちゃって良いと思います。
— 1ft_seabass (@1ft_seabass) 2016年5月7日
以前、初学者に技術を伝えてた時は、技術そのものも大事だったけど相手の興味を探るというのも、かなり気にしてたかなー。 https://t.co/NSyErVvxOY
「技術依存しない興味」というのは自分も納得で、興味が無ければ学習意欲が続かない性質なので、興味というのは重要なポイントになります
逆に興味があればそれは長続きする可能性があります(本当にこれ引き出すの難しいんですけどね)
で、ここから更に「学ぶ≒知る?」と言っていた人がいたので、それについて言及したいと思います
自分の中で考えている事ですが、知る事と学ぶ事は当然違います
知るとは知識であり、溜まり、忘却していくもの
学ぶとは知恵/発想力/応用力に近い瞬間的な行為
と捉えています
知識とはマトリョーシカみたいなもので体系的に最初から覚えていっても身につかず、実践的な内容から身についていく事が多いと思います
そしてその知識を包含して更に体系的な知識/歴史を知っていってマトリョーシカが完成していきます
しかし、その中身のマトリョーシカはどんどんと忘却していき、最終的には外側の部分だけが残ります(外側の部分だけ知っていた方が他の事に記憶というリソースを割けるからです)
この状態になると「知ったかぶり」とか「あんまり詳しくないんだけど」という状態になります
では学びとは何か
学びとはその知識の上で成り立つ、別々の知識を合成する行為/ないしはその元知識を更に発展させる行為を学びと自分は呼んでいます
そしてその行為が終わったあとは知識になります(継続的に経過を観察する場合は知識が常に溜まり、フェーズ毎に学びが瞬間的に発動している状態です)
なので、瞬間的な発想力、知恵や応用力とも呼ばれるそれこそが学びの正体であると考えています
結論、学びは教えられません
学びを得るには、本人自身の知識と思考方法と思考スピードと思考リズムが必要です
つまり本人次第だと言う事です
よくあるような「気づきを与えようとした」というのは自分には不可能だと思っています
それは何故かと言うと、本人の思考スピードや思考パターン、思考リズム、知識量などを正確に計る事はできないからです
教育者には教育者の思考スピード、思考パターン、思考リズム、知識(経験含む)
学習者には学習者の思考スピード、思考パターン、思考リズム、知識(経験含む)
があります
これを自分の思考リズムなどとコンフリクトさせずにマージさせていく必要があり、学習者のリソース(経験値)をそのまま教育者の中に展開させる必要があります
こんな事ができるのは真賀田四季博士のような他人の人格をそのまま自我の中に展開させることができる天才/異才だけであり、普通の人間では無理です
そのために「気づきを与える」などというような教え方は、烏滸がましいと自分は感じてしまいます
それは学習者に教育者の思考パターンを刻もうとする事であり、思考範囲を狭める行為に他ならないからです(異論はあると思いますが)
化物語という小説に忍野メメというキャラクターが存在するのですが、彼の言葉は非常に良いものだなと思いました
「人は一人で勝手に助かるだけ。誰かが誰かを助けることなどできないよ」
まさにその通りでこれを自分流に今回の事に当てはめるとこうなります
「人は一人で勝手に気づくだけ。誰かが誰かに気づきを与えるということなどできない」
稚拙で乱文なために読みにくかったかもしれませんが、ここまで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m
追記
昔の人が「知識と知恵は違う。両方育てなければいけない」というような言葉を残されているんですね
今回の言いたい事はこれに集約されているかもしれません
さすが、昔の人