return 1;

Webエンジニア、RailsとJSをメインに仕事しています。チーム開発が得意で、0-1や1-100のどちらも行う

感覚のままにしておきたい性質と言葉にしたい性質

早くあったかくなって欲しい、ライオンです

日本語不自由な感じで書いていくので、あんまりお気にせず

エンジニアをやっていて思うのは「感覚」で感じたままにしておきたい人と「言葉」にしたい人の両方がいると思います

この時の「感覚」っていうのは自分のしている事や何かを見た時の感じ方を言語化するのが苦手な奴ですね

「言葉」というのは逆に得意です

この2種類の分け方は恣意的な分け方なので、この時点で「うっこの分け方は酷い」と思った人はブラウザバック推奨だ

感覚で感じたままにしておきたい人

  • 「直感」で感じることが多い(しかしそれらは知識と経験に裏付けされたものであることが多い)
  • とにかく言語化することより直感的に感じた気持ちの方を大事にする
  • 気持ちなどを分解して言語化して、人に伝えるのが苦手
  • 共感ベースだったりするので、言葉が不要な人同士ではフィーリングが合う
  • 何か新しいことを始める場合でも「外観」から入り、「仕組み」の方には興味が無い

言葉にしたい人

  • とにかく「気持ち」や無形なものを言語化しようとするため、言語のチャンネル(IQレベル)が合ってないと会話が合わないことが多い
  • こういうブログを書いてしまう
  • 自分のやっていることの証拠を残したがる
  • 何か新しいことを始める場合は「外観」から入っても、「仕組み」の方に興味がすぐ向いてしまい、言語化して理解しようとする

で、最近思ったのはデザイナさんにもこれ当てはまる人いるんじゃねーかなと思った次第です

どっちが良いとか、どっちが悪いとか、そういう話をするわけではなく、マッチングさせようとした時にこれらは非常に重要なのでは無いかと思った次第です

例えば「感覚」の人から「言葉」の人を評価した時に「無粋」「野暮」「理知的」「賢い」「すごい」などの評価をしたり

「言葉」の人から「感覚」の人を評価した時に「頭が悪い」「言語野が発達していない」「落ち着く」「言葉ではなくフィーリングが重要」「あいつはきっと馬鹿のふりをしている」などの評価をしたりする

しかし、ここまで書いておいてなんだが「言葉にしたい」部分と「感覚で感じたままにしておきたい」部分などが自分にはあったりする

例えば「人が一体何に興味を示したりするのか」とか「人の気持ち」などの部分はなるべく言語化しておきたい部分である

だけど「人の生理的嫌悪感を示すものや嫌悪感の強いもの」や「倫理的に許されない行為に快楽を見出す」などの部分は言語化したく無い部分でもある

なので何もかも「言語化したい」わけではないし、これは「人」という括りではなく、「性質」の括りなのかもしれないと思う(だから一部だけ「感覚」で一部だけ「言語化」という人の方が一般的なんじゃ無いのかな、と)

そう思うのもできるだけ言語化しておければ良いな、程度なのだ

何故そこにこだわるのか、少し考えてみると20未満の成人前の人が言語化できないでも「まぁわかる」とはなるが、社会人5年も過ぎた人が「感覚」だけで物事を進めていると単純にヒヤヒヤするのである(自分も言語化しようと思うようになったのはエンジニアをちゃんとやり始めてからだと思うので30過ぎてからだと思う)

「行動原理の言語化」ができていない、ということは一体何に刺さるのか分からないし、「何を」モチベーションに動いているか分からないので、ふとした段階で離反するし、普段何をやっているのかが分からない、ということになると思う

普段何をやっているか全てを把握してもらう必要なんて無いのだが、ある程度「あの人はああいう人だ」というキャラクターは社会を生きる上での鉄則だ

他人からの自分を見た時の分かりやすさは生きやすさに直結するとは思っている(自分はそうできてないので苦しんでいるのだが)

だから言語化できる、ということは、暗黙知ではなくノウハウを共有できる、ということだ

人間という不確かで、行動原理もよく分からない、気持ち悪いモノのノウハウ(取扱説明書)を共有できる、ということは自分のためではなく、相手のためであったりするんじゃないかなーと書いている最中に思った